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netpoyo広報ブログ

ネット文化を探求する同人サークルnetpoyoの広報ブログです。

#bunfree  僕は不細工を可愛くできない。――「ネット」と「ファッション」座談会

柑橘

 

 

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パックス・ネトポヨーナ!!

 

またまた4時間ぶりくらいのねとぽよちゃん2号ですぽよ!!

 

今回お届けする記事は、柑橘先生によるファッション座談会の紹介記事ですぽよ。

Twitterではあまりに変態で怯えていましたが、本物は意外に好青年でしたぽよ。

そんな彼の一見過激な題名の記事にさらにおびえてしまいましたが、読んでみれば納得の内容なので、ぜひご一読をぽよ(はーと

 

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 どうも、初めましての方は初めまして。初めましてじゃない方は、お久しぶりです。田村俊明(@qwertett)、あるいは柑橘(@kannkitu_markII)です。今回はねとぽよSP1「女の子 WEB特集」にファッション座談会で参加させて頂いています。簡単に自己紹介をしつつ、記事を読む前に知って欲しいことを書きますね。

  現状、ファッションを語るということは、どんな行為なのでしょうか。「ファッション批評」というジャンルは、大きな盛り上がりを見せています。昨年『fashionista』fashionistaというファッション批評誌が刊行されたことや、 思想地図β3号『日本2.0』で千葉雅也氏の「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない」が収録されたことなどが、印象的な人も多いのではないでしょうか。

 この流れで、僕は、3つの問い立てに分けられると考えています。それは、

・デザイナーについてどのように評価するか

・新しいファッション産業の形をどう考えていくか

・どのように消費するのか

というものです。

今回のねとぽよ座談会でメインに扱われているのは、最後の「どのように消費するのか」でした。

 

■ 「不細工を美人に出来なかった」ファッションの限界

さて、「どのように消費をするのか」という問いは、「何が評価されるのか」という問いを誘発します。それは、「創造性」について思考することに繋がります。僕自身を事例にして話しましょう。かれこれ、7年ほど前、高校生の頃にファッションに目覚めてから、僕はいわゆるモードに憧れを持つようになりました。ちなみに、その時に好んで着ていたのは、00年代最高のデザイナーの1人エディ・スリマンと、80年代に「黒の衝撃」と呼ばれたヨウジヤマモトの二人の服です。

 しかし、高校を卒業してから、ヘアメイクアップアーティストになることを目指して入った美容専門学校で、僕は大きな躓きに気づくことになりました。そうして現在、僕は大学でファッションとアートの研究をしているのですが、この座談会は、その躓きの話と少し響きあっています。

 では、その躓きとは、一体どのようなものか。乱暴な言い方をすれば、「不細工を美人に出来なかった」のです。僕は、何かを作る時に既存のイメージに引きずられすぎてしまうという、想像力の欠陥を抱えていたのでした。

「不細工」という評価は全体像から得られるものですが、もっと細かく見ていけば、この鼻の形はミステリアスで、あの口の形はセクシーで、あの眉は情けない、といった、人間の外面についての記号性とその意味を、強く関連付ける試みによって導きだされるものです。このように外面から意味を読み込むのは、ロラン・バルトが『モードの体系』で行なっていますし、長い黒髪をみた時に、女性らしさを感じるというような日常的な反応も、そのバリエーションの1つだと言えるでしょう。しかし、髪の毛の無い女性を、女性らしくすることを、あるいはその人から新しい美しさを生み出す事もできなかった。僕の躓きは、言い換えると「既に意味がある何かに、新しい意味を上書き出来ない」というものだったと思います。これは、ファッションだと、新しい着こなしが思いつかない、新しいスタイルが創造できない、という問題でした。

 しかし、このようにファッションに意味がある、と考えること自体が、問題の本質からズレているのかもしれません。多くの人は、それほど多くの意味について思考をしていないかもしれないからです。この座談会は、まさにそれを明らかにしているように思います。必ずしも「ファッションを楽しむ=新しいものを作る」というだけではないことは『わがままファッション GIRLS MODE よくばり宣言!』の流行で、明らかになっているのではないか。そんなことも、この座談会で話しました(このゲームは簡単に説明すれば、ショップ店員になって、イメージを組み合わせて商品を選んでアバターを着せ替えて遊ぶものです)。

 この座談会で僕が強く感じたのが、「意味」というものがこれほど無価値になりえるのか、という驚きです。「意味」があるから「価値」が高い、ハイファッションの文脈で「価値」が高い(例えば最高級の素材や一流のデザイナー)からリアルでも「価値」が高い、それはもう、必ずしも通用しないのです。この座談会の参加者たちは、徹底して、目の前のコミュニケーションのための素材として、衣服を使っているように思えました。それこそがまさに、「ファッション」そのものだと感じるほどに。

  僕の考えでは、日本のファッションに関する言説は、「自意識」と服が「意味」するものを中心にしすぎてきました。「どのように消費をするのか?」「どのような服を着るのか」という問いが、哲学的な、美学的な、倫理的なものに収束しがちなのです。この発想をこじらせていくと、自分を表現をすることに夢中になって、他者の存在がないがしろにされた状態になると思います。(ファッションに傾倒しすぎた人が、なぜかコミュ障気味になっていくという謎の現象を思い出します。映画『プラダを着た悪魔』は、そういった周囲とのズレを描いた、とても感動的な作品だったと思います)。ファッションの議論をするときに、「ファッションって自己満足じゃん」という開き直りの言葉が出て来ることがありますが、この状態こそまさに「自己満足」になっている状態です。そして、僕はそういった考えは、明確に退けるべきだと考えています。このような世界観では、ファッションは、自らの外面を操作するツールであり、内面を表現する手段であり、そのまま「ファッションは自己表現」というありふれた回答に着地していきます。(その先に、大学生のファッションサークルが行う、目的が薄い、観客を意識しないファッションショーがあると、僕は感じています。)

 しかし、『ギャルと不思議ちゃん論』で扱われている通り、自己表現とは、そもそもそれを「見るものに向けて行われているべきもの」だったはずです。『ギャルと不思議ちゃん論』で書かれた、異性からの視線/同性からの視線。この「視線」というものが、ねとぽよ座談会では、重要なキーワードになっていました。

 

 

◆  こうした議論とともに、今回の座談会では、ファッション批評について考える人間の視点から、

・インターネットというアーキテクチャから新しいデザイン(プロセス)が生成するか

・ インターネットから流行は生まれるのか

という問題意識をもって参加しています。こうした問題についても、いくつか論点を提示しています。ぜひ、ねとぽよで確認して感想をリプライしていただけると幸いです。また、先述した『fashionista』でエディ・スリマンについての論考を寄稿しているので、興味がある方は是非合わせてお読みください。

 

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というところで、非常に得るものの大きかった座談会だったらしいので、みんな見てみるといいぽよ!

座談会最後の柑橘先生の大放言は一見の価値ありぽよ!

 

※(2012-11-18追記)

ねとぽよショップで「ネット」と「ファッション」座談会が収録されたSP1「不思議ぽよバージョン」が販売を開始しました

 

そんじゃーね!